死ぬ時に後悔する事〜死にかけた時に見えたモノ

ENJI


photo credit: wakalani via photopin cc

今回のエントリーは少しメンタルな内容で。

あくまでも超個人的意見なのですが、
一応シェアするというのが僕のブログの根底にはあるので良くも悪くも「吐き出して」おいて、思うことがある人は参考になれば幸いだし、無意味だと思う人はスルーしてもらえればなぁって感じです。

人は死を間近にすると何を思うか?

詳細は避けますが、今から数年前に僕はある病気で「死ぬ」事を約2カ月ほど覚悟をしなければならない時期がありました。そういう事を間近に控え、思う事は「本当に人間は死ぬんだなぁ」という事です。

「そんなの知ってる。」

「当たりまえ。」

そんな感性が如何に陳腐で現実味のない認識かという事を嫌というほど思い知らされます。体の内蔵が完全に通常ではなくなり、何も痛くないという事が「如何に奇跡か」を痛感します。ただ、食べれる事、歩けること、明日がある事。それがどれほど奇跡か。

欲望はなくなる

いい服を着たい。とか、アレが欲しいとか、何もなくなります。なんて意味のないものを追いかけていたのかと。望むことは「生きる」こと。ただそれだけ。ハゲで、デブでブサイクでも明日がしばらくは続くであろう道行く人々が羨ましくてたまりません。

ほんの少し前までは、僕もあちら側の人間だったのに。生きたい。生きたい。それ以外には何もいらない。何も望まない。あと10年、生きたい。ただそれだけでした。

死ぬときに後悔する事

残す時間が少ない時、人は何を思うと思いますか?

いや、この言い方はよくないですね。僕はどう思ったかという話です。
僕には、「叶わなかった夢」がありました。
途中で諦め、「後悔はしたくない。」そう思いながら生きてきた僕にとって、ずっと心のしこりでもありました。「いいのかな?やらなくて後悔しないかな?」と。

でも、現実には死を前にしたとき、
叶わなかった夢のことなど、どうでもいい些細な事でした。
驚くほど、人生の終わりに後悔を投げてはきませんでした。

思う事は、「子」

月並みで申し訳ないですが、
ただただそれだけ。

愛している。それは勿論の事なのですが、
もっと本能的な部分。
自分が消え、遺るモノ。それは希望であり未来。

死ぬ悲しみは子の未来が見えない事。
死ねる覚悟は子が未来を生きていく事。
この意味がどんなに重い事か。

よく、結婚は墓場と言います。
子供なんてありえないという意見も最近ネットでよく見ます。

自分の自由がなくなる?自分のお金が無くなる?

大事なものが、「自分」
いつまでも「自分、自分、自分」どこまでいっても「自分」という事が
どれほど虚しいか気づかされます。

「自分より大切なもの」

それがどれ程、大変で素晴らしいか。
「子」は未来であり、「自分」でもあると、育てているとつくづく思います。

もちろん、これが正解ではないです。
正解なんてないし、「子供」が産めない人だって沢山います。
「命」の答えはそれぞれが感じるもの。
夢を諦めては死にきれない人だっているでしょう。

だけど、自分の子供でなくてもやはり全てが希望であり、未来。
今まで、知らずに受けてきたものを返していかなければいけない年に
いつの間にかなったんだなぁと思います。

それから、数年。

僕は死にませんでした。ありがたいです。
熱さ過ぎればなんとやら、服とかも欲しい僕であります。

でも、本当に大切なもの。
健康であるという事がどれほどの奇跡か。
明日があるという事がどれほど凄い事か。

「ブラックジャックによろしく」で
膵臓がんに犯された2児の母の言葉が印象的です。

「絶望とは、こんなに眩しいものだとは知らなかった。」

結婚は大変です。互いに努力も必要です。
子供を育てる事は半端ないです。
沢山の自分の時間やいろいろなものを失います。

でも、それ以上のものが手に入ります。
だけど、それは死を間近にしないと気づかないかもしれません。

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